人外の奇妙な日記

毎回書いてる人が異なります。

テーマ:私が思うかわいいポイント

外国語の文章を読んでいると、「かわいいな」と思うことありませんか?

 

慣用表現を文字通りに解釈してしまったり原因はさまざまですが、

難しい文章だと思っていたら案外単純なことを言っていると気づく。

そこで「なんだそんな簡単なこと言ってたの」と愛着が湧いたり。

 

 

中国語では、怒りの表現として「髪の毛が逆立つ」というものがよく用いられます。

 

「完璧」という語と同じ出典の

 

”怒髪衝天(どはつしょうてん)”

 

という慣用句は、

怒りで髪が天を衝(つ)く、というもの。

 

 

他にも、のちに漢を建国する劉備と、最も勢力の強い項羽とが、

今にも大激突という直前に酒宴を開いた「鴻門の会」において、

劉備の身を守るために式に乱入した剛勇のある人が、

 

”頭髪上指(とうはつじょうし)”した。

 

と伝わっています。

文字通り頭髪が上を指すほどの怒りでもって、

項羽を睨みつけました。

 

怒っているので、いささか物騒な感じはしますが、

今回紹介する髪の毛の逆立てシーンは、

個人的にものすごく「かわいい」んです。

 

 

もしかしたら漢文で習う人がほとんどなのかもしれませんが、

私は習った覚えがないもので、

「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し」

という有名な詩があります。

 

これは、キングダムでも有名なあの秦の始皇帝を暗殺しようとした人が詠んだ詩です。

 

名前を荊軻(けいか)と言います。

 

荊軻(けいか)は、自分の国を守るために、秦の始皇帝を暗殺しに向かいます。

しかしそれは、もし成功したとしてもその後すぐに捉えられ、

罰されて殺されること間違いなしの片道きっぷ案件です。

 

そのため、易水(えきすい)という川まで、

事情を知る人たちが帰らぬ人である荊軻(けいか)をお見送りに行きました。

 

 

 

出発前にみんなで別れを嘆き、泣いた後に荊軻(けいか)は前に進み出ます。

 

 

 

筑(ちく)という楽器が奏でられ、物寂しい雰囲気。

見送りの人たちは喪服を着ています。

 

 

風蕭蕭として易水寒し。

荊軻(けいか)は、「もう二度と返りません」と詠います。

 

そのあと、

 

羽声(うせい)を忼慨(こうがい)す。

 

とあります。

どのようなものかよくわかりませんが、

荊軻(けいか)の得意な音調で強い嘆きを易水に向けて放った。

といったようなものでしょうか。

とにかくこの羽声(うせい)を忼慨(こうがい)したことによって、

荊軻(けいか)は気持ちが昂ぶったようです。

 

 

その直後、

 

士皆目を瞋(いか)らせて、髪尽く上がりて冠を指す。

 

となっています。

ここに居合わせたみんなが、目を見開いて、髪を逆立てた。

という意味です。

ここが私の最大の「かわいい」ポイントです。

 

(かわいい)

 

 

ついさっき(数行前)までは、みんな別れを惜しんでしくしく泣いていたのに、

そういう表情、雰囲気であったのに、

今度はみんなで目を見開いて怒りに燃えるというこの変化。

 

「やってこい!」

 

という気持ちなのでしょうか。

私が初めて読んだときは、この変わりように当惑しましたが、

モブがこのようにまとめて人間らしさをもって描写されることはまれであり、

かえって非常に印象的なシーンとなりました。

 

 

おそらく、詳しい方からは曲解・誤解であると言われそうですが、

こうしたきわどい理解の崖から見える景色が、

ダニング=クルーガー効果もあいまって宝物のように思われるのは、

知識を深めるきっかけとしては楽しいなあと感じます。

 

 

 

 

では。

 

 

 

テーマ:正しさ

あなたは趣味で何かを生み出していますか?

また、何かを生み出したいと思っているにもかかわらず、

あなたがつい見てしまう、あるいは熱中しているトピックは何ですか?

 

 

ここでは特に芸能・スポーツを想定していますが、

下に書くことは、その他にもさまざまなことに関係していると思います。

 

 

「正しさ」に相反する概念ってなんでしょう。

語の定義が広いため、さまざま挙げられるかと存じますが、

ここではひとまず「豊かさ」としたいと思います。

 

 

「豊かさ」は何かを生み出し、「正しさ」はそれを統御するものです。

行き過ぎた豊かさ(例えば戦争など)を、正しさは抑える役割があります。

 

 

「戦争を抑える」

 

いかにも痛快な響きですよね。

それこそ全くもって「正しい」と言えそうです。

 

私もそれは「正しい」と思います。

 

最近その「正しさ」というものが逆に行き過ぎているように感じます。

「豊かさ」の行き過ぎが、あるいは戦争なら、

「正しさ」の行き過ぎは、国力の衰退?

 

私はここで国家の行く末を案じたいわけではありません。

マクロではなくミクロな視点で、この「正しさの行き過ぎ」を眺めてみたいのです。

 

 

 

そもそも「正しい」を絶対的な指標にしていませんか。

 

私はつい最近までそうでした。

正しいことは、文字通り「正義」であって、

絶対的に尊重されるものであり、

正しくないものは排除されて然るべし。と。

 

ここに「豊かさ」という別のベクトルを取り入れると、

「正しさ」を相対化できそうですよね。

 

 

これは私が所属していたコミュニティでの出来事なのですが、

管理人が複数人いて、その下に多くのメンバーがいました。

私もメンバーの一人だったわけですが、

管理人の中に一人「絶対完璧正義マン」がいました。

「絶対完璧正義マン」は管理人の中では比較的新人でしたが、

細かなルールを熟知し、ルール違反を的確に裁いていました。

 

当時「正しさ」を絶対的なものと錯覚していた私は、

この「絶対完璧正義マン」を崇拝するかのように尊敬していました。

管理人がルールに則って厳格に対処していることは、

コミュニティにとって望ましいことだと思ったのです。

 

ある日、古参管理人の「楽しけりゃいいじゃんマン」が、

管理人であるにもかかわらずミスを犯しました。

そこで「絶対完璧正義マン」が登場し、

この「楽しけりゃいいじゃんマン」を痛烈にバッシングしたわけです。

もちろん私も援護射撃をしました。

 

管理人がルールを守らないとは何事か!

 

 

すると、この「絶対完璧正義マン」の追及に耐えかねたのか、

とうとう「楽しけりゃいいじゃんマン」がコミュニティを退出してしまったのです。

 

 

やがて私は気になり始めました。

「楽しけりゃいいじゃんマン」はコミュニティに、

多くのものをもたらしていました。

仲の良い人もたくさんいました。

それこそまさにコミュニティの「文化」ともいえるものです。

 

もしこの先も「絶対完璧正義マン」が「正しさ」を掲げて、

少しでも間違いがある者を今回のように追い詰めていった場合、

このコミュニティはどんなに無味乾燥で息苦しいものになってしまうのだろうかと。

 

 

「正しさ」は正しいので、

これを疑うことは「間違っている」と思ってしまいがちですが、

「正しさ」が行き過ぎていないかチェックする程度なら、

何も間違っていません。

 

しかしどうしても「正しさ」って疑いづらい。

「何か間違っているだろうか?」

と自問したところで、

「いや、正しい」

と、反語のような帰着を得てしまう。

そりゃ「正しさ」だから正しいのは当たり前なんですが……

とかく「正しさ」は歯止めが効かず熱狂に至りがちです。

 

 

熱狂と言えば、世論ですが。

「正しさ」に熱狂した市民って何を生み出すんでしょうか。

文化を生み出すことが難しくなる。と私は考えます。

 

 

古代ローマでは、剣闘士競技の観戦が流行ってましたよね。

いたずらに増えたローマの浪人たちは、

パンとサーカス」を与えられて暮らしていました。

 

ローマの上層部、支配者階層にとって、

多くの暇な市民たちが一斉に蜂起することを、なんとしても制御したかったはずです。

そこでとった政策が「パンとサーカス」。

 

「食い物の恨みは怖い」といいますから、とりあえずパンは与えるべし。

ではサーカスとは?

ここでいうサーカスは殺し合いの見世物のことですが、

これが「正しさ」なのではなかったかと私は考えます。

 

「正しさ」の逆、「豊かさ」は、行き過ぎれば戦争になる。

「正しさ」を強めるためには「弱肉強食」を痛感させるのが有効である。

 

古代ギリシャ世界ではさまざまな彫刻、演劇が作られ、

ルネサンスに至るまで長い間ヨーロッパの「文化」として君臨したわけですが、

この時期のローマではすぐれた建築物などはあれど、

彫刻などはギリシャ世界の模倣などが多く、目立ったものは少ない。

 

日本でいえば、江戸時代の文化が多く花開いたのも、

松平定信の厳しい財政改革期ではなく、

賄賂などが横行し、「正しさ」が比較的弱かった田沼意次の時代ですよね。

 

 

洋の東西を問わず、古来より「公開処刑」は、

娯楽に近い存在でした。

 

 

殺し合い、公開処刑

現代にはないものだからと果たして楽観できるでしょうか。

私は冒頭で挙げた芸能やスポーツがこれに類する側面を持っている感じてます。

 

芸能界のやらかした人に対する誹謗中傷の嵐は言わずもがなですが、

スポーツもなかなかのものだと思っています。

試合中でのミスや怠慢を晒し上げ、戦犯だとか辞めろだとか。

別にそうやってスポーツ観戦に熱中することが悪いことだとは思いません。

スポーツは感動を与えるなどの側面もあって、

満を持して「正しい」コンテンツだと思います。

特に何も生み出したいと考えていない人ならばむしろ市民のあるべき姿なのかもしれません。

 

あるブログを読みました。

自分のオリジナルキャラを考えてpixivに投稿してみたり、

それが思うような反応を得られず落ち込んだり、

でも諦めきれない。

そういう創作に関するブログでした。

 

その人の現在がどうなっているのか気になった私は、

検索をかけたりして今のアカウントを発見したのですが、

すっかりお酒とスポーツのことについてしか発信しないものとなっていました。

 

「諦め」は餓死しないように設計された人間の特技ですから、

その人の現状を嘆いたりするつもりはありません。

ただ、報われないながらも創作に打ち込んでいたかつての光を、

闇に葬り去ってしまう程度の力が、

お酒やスポーツにはあるのかもしれないなと感じました。

 

それがあるいは「正しさ」なのかもしれないと、

「間違ったこと」を考えるのでした。

 

 

 

 

では。

 

 

テーマ:検索結果

検索スキル、使ってますか?

 

私がまだ幼少の頃、「検索技術」「検索スキル」という言葉をたまに耳にしました。

ほとんどインターネットネイティブである私は、

「検索するのに何の技術やスキルがあるというのだろう」

と感じていました。

 

おそらくですが、まだ現在ほどインターネットが当たり前でなかった当時には、

 

パソコンを使って、調べごとができる。

 

ということでさえ、地域や年齢によっては、ひとつの能力ともいえる。

といった風潮だったのかと存じます。

 

より正確には、

一連の基本動作(マウスやキーボードを扱い、ブラウザなどのソフトを使用できる)といったものに加えて、

「どのようなワードを打ち込むべきか」

を私の周りの大人は、技術であると話していました。

 

例えば、

東京スカイツリーっていつ完成予定なの?」

という疑問を受けて、

東京スカイツリー 完成予定」

のように検索エンジンに打ち込んで、

「2011年末みたいだよ」

などと即答しようものなら、

「インターネット使いこなせてすごい!!」

みたいなノリです。

 

今のブラウザなら「東京スカイツリー いつ」などのように、

多少雑に打ち込んでも、検索エンジン側が検索の意図を汲み取って、

一問一答のようにわかりやすく表示してくれたりもしますが、

当時はインターネット=ブラックボックスという認識を持つ人も多く、

上記のようなことでさえ、SFの登場人物のようだと感じる人もいたようです。

 

 

もちろん、インターネットが当たり前の時代においては、

ここでいう「検索スキル」は、スキルでもなんでもないように思われます。

 

しかし私は最近「検索スキル」をよく用います。

私のいう検索スキルとは、

「検索結果をカスタマイズするスキル」

のことです。

 

あまり細かく説明せずとも実感していただけると思いますが……

SEO対策やらなんやら、アフィリエイトだなんだと、

お金のための検索結果が表示されるようになってきていますよね。

 

よくいわれる例だと、

「漫画」

と打ち込んで、画像の検索結果のところに、

ONE PIECE』だとか『北斗の拳』だとか、

「漫画といえばこれ」という作品の画像がひとつもヒットしない。

 

 

こうした「汚染された」とでも言うべき検索結果の中から、

自分が本当に必要としている結果だけを抽出する技術。

それは昔よりもより高度に、より重要になってきていると思います。

 

東浩紀氏は著書『弱いつながり』において、

違う国に赴いて検索をかけてみると、

全く新しい検索結果が得られることをまとめていますが、

そこまでせずとも、最適化に影響されずに検索する方法はあります。

 

私がよく用いているのは、

「完全一致検索(” ”で囲む)」と「マイナス検索(-)」です。

特に完全一致検索を駆使していて、

時には、

「私が見たいと思っているブログやサイトがあるとすれば、

こうした文言が記述されているだろう」

という想定のもと、その文節を"    "の中に入れて検索したりします。

 

そうすると、00年代に書かれたブログなんかがヒットしたりするんです。

自分の考えや悩みについての記述も、あるいは見つけ出すことができます。

そうして出会えた記事は、運命の人にでもめぐり逢ったかのように嬉しくなります。

ただ、該当する検索結果が2件や3件ほどしかないことも多く、

インターネット広しといえども、個人的にはまだまだ記述が足りないと思っています。

 

ほんとうに些細な日常の機微についての記述も、

全く同じことを考えている人が完全一致検索を用いれば、

唯一の理解者を発見できたような大きな共感をもたらす場合があります。

 

それって本当に求めていたインターネットの姿ではないでしょうか。

 

だからブログを書く人は、

「どうせこんなこと書いても誰もたどり着かないし、検索結果にも出ない」

などと悲観することがあるかもしれませんが、

見つけ出す方法はありますし、どんな小さなことでも書いて残しておいてくれていると、私は嬉しいなと思います。

 

 

 

では。

 

 

 

テーマ:性善説と性悪説

あなたは性善説性悪説どちらを信じていますか?

 

荀子かく語りき。とか細かい話ではなく。

ざっくりと「人間って生まれながらにして善人(悪人)だよね~」っていう。

あれです。

 

私は生まれつき性善説なんです。

でも、今は性悪説を信じたい人間なんです。

 

合唱曲の「BELIEVE(ビリーブ)」をご存知でしょうか。

「たとえば君が傷ついて~」

本来私の心にあるのはあの世界観なんです。

誰もが優しい心を持っている。

それはホコリかぶった心のタンスの奥底かもしれないけど。

 

では前述の、

今は性悪説を信じたい

とは何か。

 

それは私が人に裏切られたと何度も感じたことがきっかけです。

「裏切られた!」と感じる理由。

それは私の性善説に起因していると考えたのです。

 

人は良知良能を持っているというのに、なぜこのような酷いことをするのか。

 

むしろ酷いことの方を基準にして、

前提の良心に期待しないほうが良いのではないか。

 

人は平気で裏切る生き物で、だからこそ慈悲の心は尊いのだと。

 

だから私は今日から、性悪説を信じて生きていきます。

めでたしめでたし。

 

 

 

 

そう簡単には行かないですよね。

私の心の奥深くでは、いつも「BELIEVE」が流れているのですから。

 

嗚呼。心の底から性悪説を信じることはできない。

 

で。また時間が経つと。

 

やっぱり性悪説なんだ!

 

 

そんな中。ふと考えついたことがあります。

性悪説だ」とか。

性善説だ」とか。

そういう主張をする人は、本当は逆の考えなのではないか。と。

 

性善説」を尊重している人は、実際には「性悪説」が肌感としてあって。

私のように「性悪説」を推している人は、実は「性善説」を信じている。

 

 

あなたはどうでしょうか。

胸に手を当てて考えてみてください。

 

 

人生で初めて、性善説性悪説に触れたとき。

反駁したくなるのは、自分の本来の感覚と逆を行く説だと思うんです。

アンチテーゼとして強く印象に残ると思います。

そんな考えもあるのか。

などと思っていると。

それを裏付ける実例に出くわします。

当然ですよね。

人間には両面性がありますし、誤解も頻繁に起こりますから。

カラーバス効果のように、印象に残った反対の説がどんどん裏書きされていくと思います。

 

 

そして、私のように。

人って実は「性悪説性善説)」が正しいのだな。

と妙に納得してしまうわけです。

 

 

なるほど。

では、私が性善説を信じたい状態になっていたのは、思い込みの側面も強いのか。

とは言え性悪説が全く偽であるわけでもないし。

うまくアウフヘーベンしていこう。

 

というふうに賢く考えられたら良いのですが。

私はどうもおつむが世論(せろん)的、思考ロック気味で、気を抜くとつい二元論で考えてしまいますから、

やはり今は「性悪説だ!」という熱狂をいなすことが急務だと思われます。

 

 

そのため私は、自分を騙す上手い詭弁を考案しました。

 

仮定1

性善説の人は、性悪説を主張。

(思えばこの矛盾がまた辛いわけですよね)

あるいは、

性悪説の人は、性善説を主張。

 

仮定2

私は性善説の人であるが、性悪説をやはり信じたい。

 

ではどうすればいいか。

仮定1を見ればわかります。

性悪説の人は、性善説を主張、していますね。

心の底から性悪説に染まりたい場合は、逆に性善説を主張してやれば良いのです。

それは、生まれつき性悪説の人がしていることなのですから。

 

 

てなわけで。私はこれから「やっぱり性悪説だ!」と強く感じた際には、

性善説なんですよねこれが」と主張している、もう一つの隠れた心の声にそのまま主導権を渡してやろうと思います。

 

性悪説を主張していた自分は、その議長を見てこう思うわけです。

 

「よろしいよろしい。性善説を主張するような者は、

 心の底で性悪説の気持ちを信じているのだから、

 これで私は立派な性悪説論者だ」

 

これまで性悪説を主張したい自分にボコボコに殴られていた、

本来の性善説を信じる自分も安心できますね。

 

実践してみると、少し違和感を覚えました。

心臓にある40度の性善説を、

クールな脳に取り出してきて一つの論として扱っていることが、

普段血の通わない思考回路を通ってきたようで慣れない。という感覚でした。

 

今回詭弁を用いて、肌感と理屈の結論を「性善説」に一致させたわけですが。

これがなかなか珍しい体験だったようですね。

ふだんいかに感情をないがしろにして頭だけで物事を考えているのか、ということでしょうか。

 

 

そんなことを考えていると、手放せそうな気がしてきました。

上に述べたようなことは個人的には暇人の戯言の類いだと思っています。

物事の解決を目指すようなものでは決してない。

良質な考えが導き出せるものでもない。

 

だからふだんから、あまり考えすぎないようにしています。

 

 

ただ戯言も悪いばかりではないですよね。

今は低空飛行していたいという時間に、

誰かの戯言を読むことが、低空飛行の乗り物の中では悪くない選択肢なのかも。

と、今日思ったので、初めてこのような書き物をしてみました。

 

 

 

では。