あなたは趣味で何かを生み出していますか?
また、何かを生み出したいと思っているにもかかわらず、
あなたがつい見てしまう、あるいは熱中しているトピックは何ですか?
ここでは特に芸能・スポーツを想定していますが、
下に書くことは、その他にもさまざまなことに関係していると思います。
「正しさ」に相反する概念ってなんでしょう。
語の定義が広いため、さまざま挙げられるかと存じますが、
ここではひとまず「豊かさ」としたいと思います。
「豊かさ」は何かを生み出し、「正しさ」はそれを統御するものです。
行き過ぎた豊かさ(例えば戦争など)を、正しさは抑える役割があります。
「戦争を抑える」
いかにも痛快な響きですよね。
それこそ全くもって「正しい」と言えそうです。
私もそれは「正しい」と思います。
最近その「正しさ」というものが逆に行き過ぎているように感じます。
「豊かさ」の行き過ぎが、あるいは戦争なら、
「正しさ」の行き過ぎは、国力の衰退?
私はここで国家の行く末を案じたいわけではありません。
マクロではなくミクロな視点で、この「正しさの行き過ぎ」を眺めてみたいのです。
そもそも「正しい」を絶対的な指標にしていませんか。
私はつい最近までそうでした。
正しいことは、文字通り「正義」であって、
絶対的に尊重されるものであり、
正しくないものは排除されて然るべし。と。
ここに「豊かさ」という別のベクトルを取り入れると、
「正しさ」を相対化できそうですよね。
これは私が所属していたコミュニティでの出来事なのですが、
管理人が複数人いて、その下に多くのメンバーがいました。
私もメンバーの一人だったわけですが、
管理人の中に一人「絶対完璧正義マン」がいました。
「絶対完璧正義マン」は管理人の中では比較的新人でしたが、
細かなルールを熟知し、ルール違反を的確に裁いていました。
当時「正しさ」を絶対的なものと錯覚していた私は、
この「絶対完璧正義マン」を崇拝するかのように尊敬していました。
管理人がルールに則って厳格に対処していることは、
コミュニティにとって望ましいことだと思ったのです。
ある日、古参管理人の「楽しけりゃいいじゃんマン」が、
管理人であるにもかかわらずミスを犯しました。
そこで「絶対完璧正義マン」が登場し、
この「楽しけりゃいいじゃんマン」を痛烈にバッシングしたわけです。
もちろん私も援護射撃をしました。
管理人がルールを守らないとは何事か!
すると、この「絶対完璧正義マン」の追及に耐えかねたのか、
とうとう「楽しけりゃいいじゃんマン」がコミュニティを退出してしまったのです。
やがて私は気になり始めました。
「楽しけりゃいいじゃんマン」はコミュニティに、
多くのものをもたらしていました。
仲の良い人もたくさんいました。
それこそまさにコミュニティの「文化」ともいえるものです。
もしこの先も「絶対完璧正義マン」が「正しさ」を掲げて、
少しでも間違いがある者を今回のように追い詰めていった場合、
このコミュニティはどんなに無味乾燥で息苦しいものになってしまうのだろうかと。
「正しさ」は正しいので、
これを疑うことは「間違っている」と思ってしまいがちですが、
「正しさ」が行き過ぎていないかチェックする程度なら、
何も間違っていません。
しかしどうしても「正しさ」って疑いづらい。
「何か間違っているだろうか?」
と自問したところで、
「いや、正しい」
と、反語のような帰着を得てしまう。
そりゃ「正しさ」だから正しいのは当たり前なんですが……
とかく「正しさ」は歯止めが効かず熱狂に至りがちです。
熱狂と言えば、世論ですが。
「正しさ」に熱狂した市民って何を生み出すんでしょうか。
文化を生み出すことが難しくなる。と私は考えます。
古代ローマでは、剣闘士競技の観戦が流行ってましたよね。
いたずらに増えたローマの浪人たちは、
「パンとサーカス」を与えられて暮らしていました。
ローマの上層部、支配者階層にとって、
多くの暇な市民たちが一斉に蜂起することを、なんとしても制御したかったはずです。
そこでとった政策が「パンとサーカス」。
「食い物の恨みは怖い」といいますから、とりあえずパンは与えるべし。
ではサーカスとは?
ここでいうサーカスは殺し合いの見世物のことですが、
これが「正しさ」なのではなかったかと私は考えます。
「正しさ」の逆、「豊かさ」は、行き過ぎれば戦争になる。
「正しさ」を強めるためには「弱肉強食」を痛感させるのが有効である。
古代ギリシャ世界ではさまざまな彫刻、演劇が作られ、
ルネサンスに至るまで長い間ヨーロッパの「文化」として君臨したわけですが、
この時期のローマではすぐれた建築物などはあれど、
彫刻などはギリシャ世界の模倣などが多く、目立ったものは少ない。
日本でいえば、江戸時代の文化が多く花開いたのも、
松平定信の厳しい財政改革期ではなく、
賄賂などが横行し、「正しさ」が比較的弱かった田沼意次の時代ですよね。
洋の東西を問わず、古来より「公開処刑」は、
娯楽に近い存在でした。
殺し合い、公開処刑。
現代にはないものだからと果たして楽観できるでしょうか。
私は冒頭で挙げた芸能やスポーツがこれに類する側面を持っている感じてます。
芸能界のやらかした人に対する誹謗中傷の嵐は言わずもがなですが、
スポーツもなかなかのものだと思っています。
試合中でのミスや怠慢を晒し上げ、戦犯だとか辞めろだとか。
別にそうやってスポーツ観戦に熱中することが悪いことだとは思いません。
スポーツは感動を与えるなどの側面もあって、
満を持して「正しい」コンテンツだと思います。
特に何も生み出したいと考えていない人ならばむしろ市民のあるべき姿なのかもしれません。
あるブログを読みました。
自分のオリジナルキャラを考えてpixivに投稿してみたり、
それが思うような反応を得られず落ち込んだり、
でも諦めきれない。
そういう創作に関するブログでした。
その人の現在がどうなっているのか気になった私は、
検索をかけたりして今のアカウントを発見したのですが、
すっかりお酒とスポーツのことについてしか発信しないものとなっていました。
「諦め」は餓死しないように設計された人間の特技ですから、
その人の現状を嘆いたりするつもりはありません。
ただ、報われないながらも創作に打ち込んでいたかつての光を、
闇に葬り去ってしまう程度の力が、
お酒やスポーツにはあるのかもしれないなと感じました。
それがあるいは「正しさ」なのかもしれないと、
「間違ったこと」を考えるのでした。
では。