人外の奇妙な日記

毎回書いてる人が異なります。

テーマ:性善説と性悪説

あなたは性善説性悪説どちらを信じていますか?

 

荀子かく語りき。とか細かい話ではなく。

ざっくりと「人間って生まれながらにして善人(悪人)だよね~」っていう。

あれです。

 

私は生まれつき性善説なんです。

でも、今は性悪説を信じたい人間なんです。

 

合唱曲の「BELIEVE(ビリーブ)」をご存知でしょうか。

「たとえば君が傷ついて~」

本来私の心にあるのはあの世界観なんです。

誰もが優しい心を持っている。

それはホコリかぶった心のタンスの奥底かもしれないけど。

 

では前述の、

今は性悪説を信じたい

とは何か。

 

それは私が人に裏切られたと何度も感じたことがきっかけです。

「裏切られた!」と感じる理由。

それは私の性善説に起因していると考えたのです。

 

人は良知良能を持っているというのに、なぜこのような酷いことをするのか。

 

むしろ酷いことの方を基準にして、

前提の良心に期待しないほうが良いのではないか。

 

人は平気で裏切る生き物で、だからこそ慈悲の心は尊いのだと。

 

だから私は今日から、性悪説を信じて生きていきます。

めでたしめでたし。

 

 

 

 

そう簡単には行かないですよね。

私の心の奥深くでは、いつも「BELIEVE」が流れているのですから。

 

嗚呼。心の底から性悪説を信じることはできない。

 

で。また時間が経つと。

 

やっぱり性悪説なんだ!

 

 

そんな中。ふと考えついたことがあります。

性悪説だ」とか。

性善説だ」とか。

そういう主張をする人は、本当は逆の考えなのではないか。と。

 

性善説」を尊重している人は、実際には「性悪説」が肌感としてあって。

私のように「性悪説」を推している人は、実は「性善説」を信じている。

 

 

あなたはどうでしょうか。

胸に手を当てて考えてみてください。

 

 

人生で初めて、性善説性悪説に触れたとき。

反駁したくなるのは、自分の本来の感覚と逆を行く説だと思うんです。

アンチテーゼとして強く印象に残ると思います。

そんな考えもあるのか。

などと思っていると。

それを裏付ける実例に出くわします。

当然ですよね。

人間には両面性がありますし、誤解も頻繁に起こりますから。

カラーバス効果のように、印象に残った反対の説がどんどん裏書きされていくと思います。

 

 

そして、私のように。

人って実は「性悪説性善説)」が正しいのだな。

と妙に納得してしまうわけです。

 

 

なるほど。

では、私が性善説を信じたい状態になっていたのは、思い込みの側面も強いのか。

とは言え性悪説が全く偽であるわけでもないし。

うまくアウフヘーベンしていこう。

 

というふうに賢く考えられたら良いのですが。

私はどうもおつむが世論(せろん)的、思考ロック気味で、気を抜くとつい二元論で考えてしまいますから、

やはり今は「性悪説だ!」という熱狂をいなすことが急務だと思われます。

 

 

そのため私は、自分を騙す上手い詭弁を考案しました。

 

仮定1

性善説の人は、性悪説を主張。

(思えばこの矛盾がまた辛いわけですよね)

あるいは、

性悪説の人は、性善説を主張。

 

仮定2

私は性善説の人であるが、性悪説をやはり信じたい。

 

ではどうすればいいか。

仮定1を見ればわかります。

性悪説の人は、性善説を主張、していますね。

心の底から性悪説に染まりたい場合は、逆に性善説を主張してやれば良いのです。

それは、生まれつき性悪説の人がしていることなのですから。

 

 

てなわけで。私はこれから「やっぱり性悪説だ!」と強く感じた際には、

性善説なんですよねこれが」と主張している、もう一つの隠れた心の声にそのまま主導権を渡してやろうと思います。

 

性悪説を主張していた自分は、その議長を見てこう思うわけです。

 

「よろしいよろしい。性善説を主張するような者は、

 心の底で性悪説の気持ちを信じているのだから、

 これで私は立派な性悪説論者だ」

 

これまで性悪説を主張したい自分にボコボコに殴られていた、

本来の性善説を信じる自分も安心できますね。

 

実践してみると、少し違和感を覚えました。

心臓にある40度の性善説を、

クールな脳に取り出してきて一つの論として扱っていることが、

普段血の通わない思考回路を通ってきたようで慣れない。という感覚でした。

 

今回詭弁を用いて、肌感と理屈の結論を「性善説」に一致させたわけですが。

これがなかなか珍しい体験だったようですね。

ふだんいかに感情をないがしろにして頭だけで物事を考えているのか、ということでしょうか。

 

 

そんなことを考えていると、手放せそうな気がしてきました。

上に述べたようなことは個人的には暇人の戯言の類いだと思っています。

物事の解決を目指すようなものでは決してない。

良質な考えが導き出せるものでもない。

 

だからふだんから、あまり考えすぎないようにしています。

 

 

ただ戯言も悪いばかりではないですよね。

今は低空飛行していたいという時間に、

誰かの戯言を読むことが、低空飛行の乗り物の中では悪くない選択肢なのかも。

と、今日思ったので、初めてこのような書き物をしてみました。

 

 

 

では。